パプリカブログ

日々思ったことをぽつぽつと書きます。時々フィクションも。

抑えられそうもない(1)

お昼の12時にもなろうかというところで兄からご飯を食べようというLINEが来た。兄は週末になると決まって実家に帰ってくる。別に何も悪いことはないけれど、いろんなことに細かい人なので家に帰ってくるのも何となくうっとうしい。何も悪いことはしていない、というかむしろ気が利く人間としての地位を確立しているはずであるのに、周囲からは何とも言えない陰口を言われているのだから少しは同情するけれども。そんな兄への評価とは対照的に9時頃からアニメを観ながらだらだらしていた僕は、動きの速いナマケモノのようにバナナ味の菓子パンやらカップのうどんやらを食べてしまって、そんなにお腹は空いていなかったのだけれど、無意識に了解と返信してしまったので、やっぱりだらだらと街に出る準備を始めたのだった。

 

家からバス停までの数百メートルは、外の空気に自分の体を慣らすための時間だ。高校に通っている間も毎日同じ道を歩いて(時々走って)、外の世界との距離を確かめながら、歩幅や背筋の伸び、肩の振り、顔の表情なんかを、ちょうどいい感じにこわばらせていく。あと、耳。耳からの情報に僕はいつも怯えているので、ここを一番丁寧に慣らしていかなければならない。玄関のドアを閉める音、革靴の一歩目に響くカツンという音、二歩目、三歩目と進むにつれて、足音は外部の気配と混ざっていく。背負ったバッグのギシギシ。足首の関節がコキッと鳴る。全部が自分から発した音のような、そうでないような気がする。

 

思い出せば、いつも冬みたいな肌寒さを感じてしまうけれど、景色はいつも夏の晴れた日だ。そして、今日もやはり晴れで、頭の上から、伏せた顔に向けて下から、痛いくらいに熱が襲ってくる。何やら大きな虫の小さな歯でずっと顔を噛まれているみたいだ。もちろん、日差しの話である。

 

どうしてもセミの声はやまないと知ってはいるけれど、どうせなら時々休めばいいのにとだらけきってかえって疲れてしまっている自分が思うので可笑しい。セミのミーンと鳴く声は、幾重にも重なりあって聞こえる(実際その通りなのだろう)。そんなセミの声と僕の体の間にはもやっとした空気があって、それで少し耳に膜が張ってあるような気分になる。その耳の感覚を辿っていくと、どうやら耳だけじゃなくて僕自身に膜が張ってあるということに気づく。そうだ、いつからか分からないけれど、いつだって体には膜が張ってあるのだ。家の中にいたらそんなことも忘れてしまうから、たまには外に出たほうがいい。

 

バスを待っている間に、おじいさんが並んだ列を無視して乗り口に近いところで立ち止まった。ああ、老害。体が大きくて、ひょっとすると力もかなりありそうな、白髪だけど肌もいい塩梅に日焼けしていて、やっぱり元気そうな、でも、おじいさん。ああ、老害。でも、よくみたら、額の汗を手のひらで押さえながら、優しそうな表情をしている。それに、僕の後ろにこそおばあさんが二人、それこそまだまだ現役ですよと姿勢だけで分かるし、加えて僕。別にバスを待つ人の列を無視したって、誰も不利益を被ることはないのだ。それに田舎から街へ向かうバスはこの時間、そんなに人は乗り込んでこない。たまに混んでいても、二人席の片側はほとんど空いているような状態で、お年寄りが座ろうと思えば空席はいつだってあなたのものよ、とは思ってみても僕の一度感じてしまった不信感はそう簡単には消えない。しかしながらそれでもこれは、おじいさんの勝ち。だって、そもそも列を抜いたという認識は正しくないのかもしれなくて、だってバスが来てもそのおじいさんは動こうとしないので、ああ、乗らないのか、と僕が第一歩を踏み出したまさにそのときに、のらりと先に並んでいた人を待つ仕草をしたのだった。

 

3日前くらいだったか、朝から街のアーケード内にあるカフェに入って列に並んでいると、某バスのおじいさんとはまったく関係のない、赤茶色のポロシャツを着た足の不自由そうな人が僕の前に割り込んできた。そのときは特に怒りもなく、ああ、抜かれたなあ、なんて呑気に構えていると、彼の番になってアイスコーヒーを頼んでみれば、大学生っぽい女性の店員さんが豆を交換するのに時間がかかるという。するとおじいさん、早うしろにゃらほにゃららと急に不機嫌な機械のように同じ文句を繰り返すので、その前に持ち帰りでコーヒーをたくさん注文していた若いサラリーマンが、先にそれをあげていいですよ、と面倒そうに言う。さらにその前にやはり自分のコーヒーを待っていた男性は、席に座っとくからといってその場を離れる。そんなうちに、別の女性スタッフが袋にすでに収まっていたコーヒーを別の容器に移し替えて、おじいさんの前に差し出す。おじいさんはいつもぴったりの小銭で支払いを済ませて、トイレに一番近い席に陣取った。

 

僕はアイスコーヒーを頼む気にはなれなかったので、アイスティーをストレートで、と言った。

 

席を確保した後、トイレに行ってみたら小さい方をかなりこぼした跡があって、直感的にあの赤シャツのおじいさんだろうと思った。まあ、後から記憶を辿ってみれば、僕が二階に行くとき、おじいさんはトイレに向かって膝の曲がらない足でぽつぽつと歩いて行ったのを見ているので、やはり彼だろうと検討をつけただけなのだが。