パプリカブログ

日々思ったことをぽつぽつと書きます。時々フィクションも。

抑えられそうもない(2)

 バスの中は体がびっくりするくらい冷えていて、体にこびりついた膜が一瞬でどこかへ蒸発してしまうのが分かる。でもそのときにはすでにセミの声はバスの車体によって防がれているから、無機質な静けさがようこそと僕を席に案内するので、僕は一番冷えていないところを選びたいとは思うけれど、どうせいつも座る場所は決まっている。大体が自分で空調の風向きを調節すればいいので、どこに座ろうとも問題はない。

 

窓の外を見るのは儀式みたいなもので、別に何も目新しいものがあるわけでもないし、決まって見るべきものもない。時々毛並みのいい犬を散歩させているおばさんがいたり、目的なく歩いている中学生がいたりするけど、大抵は意識の外を通りすぎていく。

 

それでも、窓の外にある景色は僕を落ち着かせてくれるような気がする。気がするからには、やって悪いこともないので、何となく毎度同じように外を見つめる。

 

だから、というわけではないけど、今日も顔を見えないガラスに向けてみた。いつもと違うと思ったのはその時だった。というか、景色はいつもと同じだけど、見ている自分に違和感があるのだ。

 

気持ち悪いって曖昧な言葉で、気持ち悪いものが一体何であるのかを名指しで言わずとも、相手にも何となく伝わる。体の調子が悪くて気持ち悪くても、気持ち悪いと感じることが気持ち悪くても、全部気持ち悪いだけで伝わるから面白いこともあるけれど、それを使ってみて、声に出してみて、どこかむず痒くてすっきりしない。

 

運転手が使うバックミラーは大きくて、僕からは運転手の無表情な顔が見える。そして、それが本当に運転手の顔なのか、ふいに分からなくなる。ガチャガチャ、と傘の柄やバッグの金属部分がバスの壁に擦れて鳴る。揺れてるのはバスなのか自分なのか、あるいは窓の外にある景色なのか。あるいは何も揺れていないのかもしれない。どうでもいいんだけど、そういうのってかなり気持ち悪い。

 

そういえばあの列に並ばなかったおじさんはどこに座ったんだろう。僕より前にはいないから、入り口に近いところに座っているのか。僕の後ろ頭を見ているのだろうか。どうして、後ろめたくなるのか、あのバスを待っていた時の出来事がそうさせるのか。声をあげて彼を断罪したわけでもないし、あれは勘違いだったのだから、もはや誰も悪くない。彼は僕が何を思っていたのかすら気づいてない。

 

イヤホンをしてみたけれど、音楽が耳に入ってこない。視覚が聴覚の力を奪い取っている。視覚は自意識に蝕まれている。自意識はあの、バスを待っていたおじいさんに握られている。

 

ああ、叫びたい。いまここで叫んだなら、バスの中と耳の中にうわっと感覚が響き渡り、壁を跳ね返って静けさと一緒に僕のもとに戻ってくるだろう。そうして、引き寄せられた視線を浴びる替わりに、僕は今日も僕である。静けさが自分とものとの距離を測って教えてくれる。おじいさんもきっと僕を見つめる。でも、これまでとは違う目で。誰も責めることなく、バスを待つ人が乗り込むのを待つように、僕の次の動きを待っている。

 

そうして、バスは僕が降りるバス停に着く。すっと席を立つと、他に降りる人たちが過ぎていくのを確かめて、僕のせいで日常を奪われてしまった人々の目とともに、静けささんが、さようなら。

 

バスを降りると、日差しが容赦なくアスファルトを照らしている。街の体温は、歩いているうちに自分の体温になる。待ち合わせの場所までは、歩いて10分程である。

抑えられそうもない(1)

お昼の12時にもなろうかというところで兄からご飯を食べようというLINEが来た。兄は週末になると決まって実家に帰ってくる。別に何も悪いことはないけれど、いろんなことに細かい人なので家に帰ってくるのも何となくうっとうしい。何も悪いことはしていない、というかむしろ気が利く人間としての地位を確立しているはずであるのに、周囲からは何とも言えない陰口を言われているのだから少しは同情するけれども。そんな兄への評価とは対照的に9時頃からアニメを観ながらだらだらしていた僕は、動きの速いナマケモノのようにバナナ味の菓子パンやらカップのうどんやらを食べてしまって、そんなにお腹は空いていなかったのだけれど、無意識に了解と返信してしまったので、やっぱりだらだらと街に出る準備を始めたのだった。

 

家からバス停までの数百メートルは、外の空気に自分の体を慣らすための時間だ。高校に通っている間も毎日同じ道を歩いて(時々走って)、外の世界との距離を確かめながら、歩幅や背筋の伸び、肩の振り、顔の表情なんかを、ちょうどいい感じにこわばらせていく。あと、耳。耳からの情報に僕はいつも怯えているので、ここを一番丁寧に慣らしていかなければならない。玄関のドアを閉める音、革靴の一歩目に響くカツンという音、二歩目、三歩目と進むにつれて、足音は外部の気配と混ざっていく。背負ったバッグのギシギシ。足首の関節がコキッと鳴る。全部が自分から発した音のような、そうでないような気がする。

 

思い出せば、いつも冬みたいな肌寒さを感じてしまうけれど、景色はいつも夏の晴れた日だ。そして、今日もやはり晴れで、頭の上から、伏せた顔に向けて下から、痛いくらいに熱が襲ってくる。何やら大きな虫の小さな歯でずっと顔を噛まれているみたいだ。もちろん、日差しの話である。

 

どうしてもセミの声はやまないと知ってはいるけれど、どうせなら時々休めばいいのにとだらけきってかえって疲れてしまっている自分が思うので可笑しい。セミのミーンと鳴く声は、幾重にも重なりあって聞こえる(実際その通りなのだろう)。そんなセミの声と僕の体の間にはもやっとした空気があって、それで少し耳に膜が張ってあるような気分になる。その耳の感覚を辿っていくと、どうやら耳だけじゃなくて僕自身に膜が張ってあるということに気づく。そうだ、いつからか分からないけれど、いつだって体には膜が張ってあるのだ。家の中にいたらそんなことも忘れてしまうから、たまには外に出たほうがいい。

 

バスを待っている間に、おじいさんが並んだ列を無視して乗り口に近いところで立ち止まった。ああ、老害。体が大きくて、ひょっとすると力もかなりありそうな、白髪だけど肌もいい塩梅に日焼けしていて、やっぱり元気そうな、でも、おじいさん。ああ、老害。でも、よくみたら、額の汗を手のひらで押さえながら、優しそうな表情をしている。それに、僕の後ろにこそおばあさんが二人、それこそまだまだ現役ですよと姿勢だけで分かるし、加えて僕。別にバスを待つ人の列を無視したって、誰も不利益を被ることはないのだ。それに田舎から街へ向かうバスはこの時間、そんなに人は乗り込んでこない。たまに混んでいても、二人席の片側はほとんど空いているような状態で、お年寄りが座ろうと思えば空席はいつだってあなたのものよ、とは思ってみても僕の一度感じてしまった不信感はそう簡単には消えない。しかしながらそれでもこれは、おじいさんの勝ち。だって、そもそも列を抜いたという認識は正しくないのかもしれなくて、だってバスが来てもそのおじいさんは動こうとしないので、ああ、乗らないのか、と僕が第一歩を踏み出したまさにそのときに、のらりと先に並んでいた人を待つ仕草をしたのだった。

 

3日前くらいだったか、朝から街のアーケード内にあるカフェに入って列に並んでいると、某バスのおじいさんとはまったく関係のない、赤茶色のポロシャツを着た足の不自由そうな人が僕の前に割り込んできた。そのときは特に怒りもなく、ああ、抜かれたなあ、なんて呑気に構えていると、彼の番になってアイスコーヒーを頼んでみれば、大学生っぽい女性の店員さんが豆を交換するのに時間がかかるという。するとおじいさん、早うしろにゃらほにゃららと急に不機嫌な機械のように同じ文句を繰り返すので、その前に持ち帰りでコーヒーをたくさん注文していた若いサラリーマンが、先にそれをあげていいですよ、と面倒そうに言う。さらにその前にやはり自分のコーヒーを待っていた男性は、席に座っとくからといってその場を離れる。そんなうちに、別の女性スタッフが袋にすでに収まっていたコーヒーを別の容器に移し替えて、おじいさんの前に差し出す。おじいさんはいつもぴったりの小銭で支払いを済ませて、トイレに一番近い席に陣取った。

 

僕はアイスコーヒーを頼む気にはなれなかったので、アイスティーをストレートで、と言った。

 

席を確保した後、トイレに行ってみたら小さい方をかなりこぼした跡があって、直感的にあの赤シャツのおじいさんだろうと思った。まあ、後から記憶を辿ってみれば、僕が二階に行くとき、おじいさんはトイレに向かって膝の曲がらない足でぽつぽつと歩いて行ったのを見ているので、やはり彼だろうと検討をつけただけなのだが。